どうも、ものだねです。
ポケモンMV「GOTCHA!」で冒頭・終わりの線路のシーンが
STAND BY MEと知った時から気になり続けてはいたんですが、
ようやく見ました。
STAND BY ME自体の感想
物語はある男の回想から始まります。
回想が本編であり、それ以外の全ては物語の〆なのです。
悪ガキ4人がひょんなきっかけで旅に出た。
最初は英雄になりたかった。
本当にそんな大層な話じゃあありませんでした。
等身大の悪ガキ4人が旅に出て、舐め腐った大人に一矢報いて、
結局は特別になることを諦めて、元の日常に戻っていく。
それでも主人公がこの道を選べたのはこの冒険があったからなのだという肯定と、
そして青春という名の郷愁の物語なのだと思います。
最初は期待したものとは違ったかなと思っていたんですけど、
咀嚼していくとそういう物語だからこその良さがあるなと気づいてきたんですね。
自分にとって感動の名作ではないんですが、
日常の延長にある冒険って感じが好きです。
デジアド・02とSTAND BY ME
こんなのもう角銅監督がぶっちゃけておりますが、
デジアド・02はSTAND BY MEのオマージュ作品です。
(正確にはオマージュ元の1つ)
デジアドのキャンプから始まり、
02のラスト、小説家になったタケル。
02のラストはデジアドの頃から決まってて、
急遽02をやることになって02に持ち越しになったっていう経緯があるそうです。
デジアドではデジモンをデジタルワールドに残して現実世界に帰ることで、
02ではパートナーが当たり前に存在する世界になったことで、
それぞれの主人公達の特別性が失われます。
02夏映画でもSTAND BY MEが題材になっている辺り、
結構制作陣にとっても根幹にある作品ではないかと思ったり。
(題材っていうかもうテーマが「スタンド・バイ・ミー~ひと夏の冒険~」ですし)
文脈を破壊するデジアド続編
これを書くにあたって、本当ならTri.を一から見るべきだとは思うんですが、
あの作品群に対価と時間を使うことに耐えられないので見ません。
そんなTri.よりはマシだと言われているラスエボとザビギですが、
ぼくはラスエボの方は酷評してるんですよね。
なのでそういう目線であることはあらかじめ書いておきます。
あと、アドコロも触れるべきかもしれませんが、
ぼくはヤマトのタケルに対する描写に納得いかなくてキレたことがありまして、
そんなことが積み重なった結果、途中でドロップアウトしました。
主な理由としてはヤマトの兄・保護者としての描写が薄くてですね、はい。
脚本ではなくアニメの描写で補えるような部分に対する批判です。
タケルを最後尾にするヤマトなんてヤマトじゃねえ!!!!!
アドコロは本題ではないのでここまでにして。
ラスエボの話をしましょう。
ラスエボに対してざっくりどんな酷評をしたのかというと、
- 新キャラ・メノアは設定に踊らされた舞台装置である。
- テーマが曖昧で脚本家自身が回答を持っていないと捉えられても
文句の言えないような雑で救いのない終わり方にした。 - 太一たちを枠に押し込めたつまらないキャラにしてしまった。
当時のふせをまとめるとこんな感じですかね。
特に気に入らないのが②です。
この辺は踏まえなくてもいいんですが、
ラスエボは如実にSTAND BY MEの文脈から逸脱しています。
メノアは本来、STAND BY MEで言えば、
旅が終わった後に何でもない日常に歩み出す子供です。
結果、別れを惜しみ、郷愁に囚われてしまった。
文脈を踏まえるのなら、
"あの旅の思い出があったからここまで来れたし、これからも歩いていける"
となります。
もちろん逸脱したキャラがいてもいいのですが、
そこに他の選ばれし子供、8人のうち5人が郷愁に打ち勝てなかった
という展開が差し込まれてくるのはいかがなものかと。
たとえメノアが文脈から外れていたとしても、
アド~02の8+4人は文脈から外れていないキャラなのです。
だからこその02のあの終わりでしょう?
ザビギについては酷評要素が概ね解釈違いに留まっていて、
希望もある、悪くない終わり方だったと思っています。
内容もほとんど覚えてないんですが、当時のふせを見る限りはそうですね。
こちらの新キャラ・ルイもSTAND BY MEの文脈から外れたキャラですね。
まあ簡単にSTAND BY MEの文脈に乗せると、
02夏映画になるので仕方ないことは仕方ないですが。
おしまい
というわけで、元ネタを知るとデジアドがもっと楽しくなる映画「STAND BY ME」でした。
何物でもない少年達の、何でもない日常の延長線にある冒険譚。
良い映画です。
ノシ