ものだねっと

■作業とゲームと現実の板挟み。 ■FGO:ネロちゃまは万病に効くどころの話じゃなかった。

メギド72完結おめでとうお疲れ様でした

どうも、ものだねです。
ふせに書いた感想もどき(自分はこう解釈するって話)をこちらにも。
完全にネタバレですので130まで完走した人向けです。

 

蛆とは、超存在とは我々人間だったのではないか

感情移入ではなく、超存在の生態は人間(≒創造主)の振る舞いのそれなのではないかと感じた。

 

まずは蛆から。
他者の関わり合いから自我が生まれ、手の届かない空想に憧れを抱き、模倣する創造主。
内面の世界は今までの経験と手に取った物語でできている。

 

創造主は三次元にいて、三界は二次元の世界。
第四の世界=創造主の世界は創造主のいる三次元ではなく、創造主自身の内面にある三次元でも二次元でもない世界。
いわば具現化前の創作で、チョロチョロと朧気にキャラだけを生み出していくような。

 

カトルス(メギドラル)にはこういう描写もある。
ベルフェゴールが土地を封印して棄戦圏にすると、封印を解いた時に逆にフォトンは豊かになるのだと。
これも人間(創造主)の振る舞いに見える。
創作は休養を取り、多様な他者の創作や現実に刺激を得ることで新しい創作を生み出せる。

 

カトルスは他方で、空虚な内面の創造主でもあった。
空虚なりに、こうあるべき、あってほしいという願いだけは一人前で、それが蛆の創作キャラ(幻獣)に指向性を与えた。
最終的に蛆(他の創造主)から創作キャラの作り方を教わり、自分なりの創作キャラ(新しいメギド)を生み出す。
そこにはこうあってほしいという願いはなく、ただ生まれてほしいという願いしかなかったのだから情景を持ち合わせるはずもない。

逆に消えろという願い(叫び)がメギドに影響を及ぼしたのもメギドが事実上カトルスの創作物として扱われていたからだろう。

 

また、これまでのカトルスの解釈がメギド達に委ねられていただけでカトルスの実情には程遠かったというのも、創造主と読み手(受け手)の関係を彷彿とさせる。

 

ヴァイガルドはどうだっただろうか。
ヴァイガルドの超存在は作中の上では創造主に満たない観測者として扱われている。
大多数の人間は創造主ではないのだから、これもまた人間の振る舞いの1つであると言える。

 

ハルマニアは超存在が描かれていない。
超存在もフォトンという形をとっているのでおそらくハルマニアにいたはずの超存在は既に本来の形を失っていると思われる。
つまり創造主はフォトンが発生しなくなったあの時に死んだのだろう。

 

人が死んでも作品は残る。
あるものは未完の作品として公表され、あるものは未完結のまま世界に取り残され、あるものは後継が完成させる。

 

ハルマニアの場合は未完のまま世界に取り残されてなるものかと足掻いて新たな超存在を生み出した。
全てのハルマの想いを背負った最後のハルマがそうだ。
ただ、ハルマは超存在として始まったばかりだからどうすれば世界が続くのか=もっといい結末を描けるのかわからなかった。
そして救いをヴァイガルドに見出した。

 

こうして考えるとハルマニアの対はメギドラルではなく、第四の世界だろう。
世界の終わりにして始まりを探す者、世界の始まりにして終わりをもたらす者。
他者の可能性を搾取し、自己の維持/発展に費やしていた者たち。

 

締め括り

最初は蛆とカトルスは自分だと思った。
ヴァイガルドを考えた時に自分ではなく人間なのだと思った。
蛆のように世界を模倣した創造主が今度は新たな世界を作る循環。
だからハルマニアの前にも世界があり、蛆もまたいつか今までとは別の世界と出会い、その出会いは出会いを生み、きっとどこまでも続いていく。
その交差点が観測者であり続ける超存在のいるヴァイガルドだったのだと思う。

 

だから、モンモンはいつか、第四の世界へとつながるゲートを見つけるだろう。
モンモンでなくても、ヴァイガルドでいつか誰かが。